ジャニー喜多川氏による性的加害問題が社会的な注目を集めており被害者たちからは、彼が少年たちの布団に忍び込んで無理やり同衾(どうきん:性的な関係を持つこと)したという証言が相次いでいます。
そのような行為を、折口信夫という石川県とも関わりのある昭和のカリスマ学者も、ジャニー喜多川氏ほど悪質ではないのですが同様の手口で弟子たちにセクシャルハラスメントを行っていたということが明るみになってるようです。このような闇はいくらでもありそうですね。

折口信夫とは
折口信夫は、日本文化の古代から近代までの多面的な研究を行い、「折口学」と呼ばれる広範な学問領域を開拓しました。また、釈迢空として詩歌にも優れた才能を発揮し、多くの作品を残しました。彼は日本文化史において重要な役割を果たした人物です。
折口信夫と石川県との関わり
折口信夫と石川県との関わりは、主に彼の養子である藤井春洋によるものです。藤井春洋は、石川県羽咋市一ノ宮町に生まれた国文学者で、折口信夫の門弟でした。
折口信夫は、1927年に能登半島に採訪旅行した際に、初めて春洋の生家を訪れましたその後、折口信夫と春洋は公私ともに親密な関係となり、同居するようになりました1944年に春洋が硫黄島に出征する前に、折口信夫は春洋を養子に迎えましたしかし、春洋は翌年硫黄島で戦死しました。
折口信夫は、春洋の命日を南島忌として悼みました1949年には、春洋の生地である羽咋市一ノ宮町に父子墓を建てました1また、羽咋高校の校歌の作詞も依頼されて受けました折口信夫は、1953年に胃癌で亡くなりましたが、彼の遺骨は春洋とともに一ノ宮町の墓に埋葬されました
折口信夫と石川県との関わりは、彼の養子である藤井春洋を通じて深まったものです。彼らは、国文学や民俗学の研究だけでなく、詩歌や芸能などにも優れた才能を発揮しました。彼らの父子墓や歌碑は、羽咋市一ノ宮町に今も残っています。
折口信夫の生涯
折口信夫は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空という名で詩人・歌人でもありました。彼の生涯は以下のようにまとめられます。
- 1887年2月11日、大阪府西成郡木津村に生まれる
- 1910年、國學院大學を卒業後、中学校教師を経て、国学院大學と慶應義塾大学で教鞭をとる
- 1913年から柳田國男の高弟として民俗学の研究を始める
- 1917年から「アララギ」の同人となり、独自の歌風を確立する
- 1921年と1923年に沖縄に民俗採訪旅行を行い、古代研究の基礎を築く
- 1932年に文学博士の称号を受ける
- 1934年に日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる
- 1944年に門弟の藤井春洋を養子にする
- 1945年に春洋が硫黄島で戦死する
- 1949年に春洋の生地である石川県羽咋市一ノ宮町に父子墓を建てる
- 1953年9月3日、胃癌のため東京都新宿区で死去する享年66歳
折口信夫の代表的な著作
折口信夫の代表的な著作としては、以下のようなものが挙げられます。
- 『古代研究』(1929-30):日本文化の古代から近代までの多面的な研究を行った折口の代表作です。古代の言語、文学、芸能、民俗、神道などについて深く探求し、折口独自の視点と方法で解釈しました。
- 『日本文学の発生序説』(1951):日本文学の起源と発展に関する折口の学説をまとめた著作です。日本語の詩語性や口承文化、呪言や敍事詩などについて論じました。
- 『近代短歌』(1940):折口が歌人として活動した時期に書いた短歌論です。正岡子規や北原白秋などの近代歌人を批評し、自らの歌風や歌誌『日光』について述べました。
- 『日本芸能史六講』(1944):折口が慶應義塾大学で開講した芸能史の講義をまとめたものです。神楽や能や歌舞伎などの日本伝統芸能について歴史的・民俗学的に分析しました。
- 『口訳万葉集』(1916,1917):折口が国学者三矢重松に師事した時期に書いた万葉集の口語訳です。万葉集全二十巻(4516首)を現代語に訳し、注釈や解説を加えました。
折口信夫の民俗学や国文学での貢献
折口信夫は、民俗学や国文学において、多くの貢献をしました。彼の主な業績は以下のようにまとめられます。
- 民俗学では、柳田國男の高弟として、日本の古代から近代までの民俗生活や信仰を研究しました。特に、マレビトやヨリシロという概念を提唱し、日本文化の神秘性や詩性を解明しようとしました。また、沖縄や能登などの地域の民俗を採訪し、貴重な資料を残しました。
- 国文学では、日本文学の起源と発展に関する独自の学説を展開しました。呪言や祝詞などの口承文化に注目し、日本語の詩語性や音韻性を分析しました。また、万葉集や源氏物語などの古典文学についても深く探求し、新たな解釈を提供しました。3
- 歌人としても活躍し、アララギや日光などの歌誌に参加しました。独自の歌風を確立し、多くの作品を残しました。処女歌集『海やまのあひだ』は高く評価されています。
折口信夫は、日本文化の古代から近代までの多面的な研究を行い、「折口学」と呼ばれる広範な学問領域を開拓しました。彼は日本文化史において重要な役割を果たした人物です。
折口信夫のセクシャルハラスメント
折口信夫のセクシャルハラスメントは門下生たちもこの加害行為を黙認していたようですが、折口は自身の行動をどのように「正当化」していたのでしょうか?
愛弟子の藤井春洋と夫婦同然の関係
「女性は不潔だ」と言われ、料理や洗濯、社交活動など、生活の全てを男性の弟子に任せていた折口信夫は、民俗学者であり歌人でもありました。
折口には愛弟子の藤井春洋がおり、彼とは「15年も一緒に暮らしていた夫婦同然の関係」でした。しかし、昭和18年(1943年)の太平洋戦争後期、藤井は地元の金沢から出征することが決まり、自分の後継者を探すことになりました。
藤井の後継者候補、加藤守雄
当時、夫の妾を正妻が探すという習慣がまだ残っていた時代でした。藤井春洋は、自分の身代わりとして折口信夫が好んでいると確信し、加藤守雄という弟子を選び、折口の箱根の別荘に呼び寄せました。折口は生活の全てを「正妻」として藤井に任せきっていたのでしょう。
彼は隣で寝ている加藤の布団に潜り込み、密着して愛の言葉を囁きます。しかし、加藤は折口を「師」として受け入れる意志はありませんでした。彼は拒絶し、実家に逃げ帰りますが、その後も加藤は折口からの執拗なアプローチを受け続けることになります。
加藤の回想録『わが師 折口信夫』によると、折口は「師弟関係は単に師匠の学説を受け継ぐだけでは功利的な関係になってしまう」という信念を持っていたそうです。「師弟関係というものは、そこ(同性愛)まで発展しないと完全ではない」という考えでした。お互いが強く望むのであれば、それは他人が口出しすべきではない問題ですが、折口は「師」という立場を利用して、年下の男性に対する性的な加害を正当化する言葉を持っているように思えてしまいます。
加藤守雄に見捨てられる
更に折口の目から見て、加藤は文学の才能に欠けており、「歌が下手だ」という評価さえ下していました。「森蘭丸は織田信長に愛されたことで歴史に名前が残った。君も折口信夫に愛された男として、名前が残ればいいではないか」と、折口は加藤を口説いたこともありましたが、結局、加藤は折口を見捨て、二人は異なる道を歩むことになります。
再会したのは折口の最晩年で、体調が悪化し末期がんが見つかった時でした。折口信夫の言葉は「私から離れていった者は、皆不幸になるね」というものでした。弟子にとって師匠はカリスマ的存在であり、その言葉一つで何とかなることもあったでしょう。しかし、折口の弟子への性的な加害と、それを黙認し続けた門下生の暗部は、加藤守雄という一人の反逆者の告発によって明るみに出され、文学史に刻まれることになってしまいました。
セクシャルハラスメント問題は過去のものだけではない
ここで言いたいのは決して折口信夫を闇雲に非難するということではありません。たまたま折口信夫のセクシャルハラスメントが明るみに出たのですが、実際のところこのような立場を利用したセクシャルハラスメントはいくらでもありそうです。
今はジャニー喜多川事件の影響で「男性の男性に対するハラスメント」が話題となってますが、現実的には「男性の女性に対するハラスメント」はもっと膨大でしょう。決して過去のことだけではなく現在も横行してることでしょう。


